第一話 牙

5.結


… 顔に鉄くさい風が当る。 顔を濡れた物が拭う。

何かで張り付いた瞼をこじ開ける。

虎娘… 口元が血で真っ赤に濡れている。 他の者が見れば腰をぬかして逃げず様な恐ろしい顔。 しかし、侍は彼

女が何をしたのか判っていた。

ごふっ… お…お前が血を…除いてくれたのだな…

こくんと頷く虎娘… 微かに光るものは涙だろうか。

…すまぬな… 結局俺は…半端者よ…侍も…獣も…全うできなんだ…

侍の言葉を虎娘が理解できるはずはなかった。 しかし虎娘は言った。

「お前は獣だ…立派な獣だ」 これは間違いなく逝こうとしている者への慰めだ。

侍は笑う。 (これが鬼だと…獣だと… ならば人のほうがよほど浅ましいわ…)

血にまみれ、震える手で侍は刀を指差す。

あ…あれが俺の牙だ…

虎娘は静かに頷いた。

それを見て侍はもう一度笑い。 そして息絶えた。

虎娘はしばし瞑目し、それから立ち上がると刀を手に取る。

キン! 鋭い音が猟師小屋に響いた。


チュンチュン… 早起きの山鳥が猟師小屋の屋根で囀っている。

もやの中を猟師の太兵衛がやって来た。

(…)

太兵衛は小屋の前で血の匂いに気がついた。

用心しつつ小屋に入る、むせ返るような血の匂い。

すばやく辺りを見回し、耳を済ませて何かが潜んでいないか捜す。

何かがいる気配はない。

窓を上げつっかい棒をかまして朝の光を入れると、凄惨な光景が明らかになった。

囲炉裏端におびただしい血の跡、深々と残る爪あと、引き裂かれた着物…そして折れた刀…

「こりゃぁ…」絶句する太兵衛。

血の跡を辿ると、何かを引きずったような跡が戸口に続いている。

「村おさに知らせるだべ」太兵衛は刀を持って小屋を後にした。


「血まみれの着物が残ってただか」

「んだ」

「侍ぇは居ねぇ…骨の欠片も…」

「んだ」

「この刀…先は?」

「見つからねぇだ」

村の主だった者達が集まって太兵衛の話を聞いた。

彼らは鬼が仕返しに来て、侍は鬼の手に掛かったのだろうと考えた。

「侍ぇは多分…」

「そんな事より。 村おさぁ」

「判っとる…鬼さぁどうなったかだ…」

刀が折れて切っ先が無い… もしかすると侍が鬼に手傷を負わせたかもしれない…

「しばらく用心すんべ…」


そして半年、その村に虎娘は二度と姿を現さなかった。

侍の子を身ごもったからなのか。

侍の事を思い出すのが辛かったからなのか。

真の理由は虎娘にしか判らないであろう。

雪が降る頃になって、村人達はようやく安堵する。

鬼は死んだかどこかに行ってしまったのだと。

そうなると侍は務めを果たした事になる。

村おさは迷ったが、結局侍の墓を立て彼の菩提を弔う事にした。

生きている者を養い続けることに比べれば安いものだ。

この話はここで終わる。


何? 侍の名? 虎娘がどうなったかって? それに失われた切っ先の行方?

彼の名が知りたければ『鬼去里(きささ)村』に行ってみる事だ。 荒れ果てた寺の苔むした墓に刻んである。

そして虎娘の消息は…はっきりとは判らない。 

ああ待てよ、どこかの山奥で木々の間を飛ぶ青鬼の噂が流れた事がある。

その鬼は、奇妙な三角の光を放つ首飾りをしていたそうだ。

侍の名とその伝説は人の地に残った。

しかし侍の心は、獣となった彼の牙は、今も虎の娘と共にあるのだろう。

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ぱちぱちぱち… 滝は気の無い様子で手を叩いた。

「ま、どこかで聞いたような話だが小道具が雰囲気を盛り上げてくれたよ」

「しかし、怪談とは言えないなぁ。やっぱり侍の幽霊が夜な夜な村おさを祟るとか」志度が後を受ける。


黒マントは黙ってフードを取った。

滝と志度が目を剥く。

堀の深い青い顔、虎島のショートヘアー、頭の上にある三角の耳…

その異相の女は『首飾り』を拾いあげて身に着けるとすっくと立った。

弾みでマントが滑り落ち、青と虎島で彩られた逞しい女体が露になる。

「…こ…こ…凝り性だね…」

「ボ…ボ…ボディペインティングとは…」


女はロウソクを手に取ると一気に吹き消す。

そして、ポイという感じでロウソクを司会のミスティに投げてよこした。

ミスティは何も言わずにそれを受け止める。


彼女は最後に滝と志度をじろりと見る。

「サラバ」

そう言って深々と腰を落とす。

ダン! 一瞬でその姿が視界から消えた。

振り仰いだ滝の視界の端を、一条の銀の光が流れて消えた。

<第一話 牙 終>

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